日本武徳院 映像 稽古週報 黒澤雄太 異論外聞 映画
平成十四年二月九日。
その日僕らは、五十年間眠りつづけていた須賀田礒太郎の魂を、確かにはっきりと、現実のものとして体感した。
網膜は舞台上で演奏するオーケストラを映しだし、鼓膜は紡ぎだされた空気の振動を音としてとらえ、お互いに握りしめた両の手は、感応し汗を行き来させ、鼻は会場に集まった観客の発酵する匂いをかぎ、すべてが終わったあと、乾いた舌は冷たい水を吸収し、歓喜した。

▼大槻一雅 映像作家
師範による紹介
風が吹いている。見渡す限りの広大な草原。
なだらかな丘の中腹に毛の長い動物が群れ、草を食べている。どこかの牧草地のようだ。穏やかな微風が心地よく肌に触れる。澄み切った空にはヨーロッパの太陽が輝き、中央アジアの雲が地面に影を描く。彼方の地平線を馬が疾駆する。
突然、空気の流れが断ち切られ、無数の透明な金属の破片が舞い踊る。銀色の輝きに一瞬包まれる。湖水は深い緑色だ。風景はいつの間にか変容している。大きな翼を広げた純白の鳥が遠くの湖面を滑空する。まるで生命を持った鏡のように、さざなみは青空を撹拌し続ける。細かく揺れる波は互いに干渉し合い、次第に景色そのものを湾曲させてしまう。
雲海は六千メートルの絶壁だ。遥か地表に向けて雪崩れ落ちる。その壁面から虹が次々と現われて、艶めかしい曲線をどこまでも描いてゆく。強風はあらゆる方向から吹いてくる。急激に気圧が下がる。眩暈のような乱気流に巻き込まれ、聳え立つ雲の内部へと吸い込まれる。微細な水の成分が全身に滲透する。濃密な湿度に切り裂かれ、意識と外界との境界が完全に消滅する。
やがて、雲を突き抜けて、眼下に広がる大陸を発見する。 

須賀田礒太郎の『交響的序曲』が映像的なのは何故だろうか。

映像を喚起する響き。
それはある種の上質なアンビエント感だ。
伝統の庇護を受けながら物語を語ろうとするのでもなく、極限まで抽象化してしまうのでもなく、空気の波動そのものを音楽として成立させること、要するに、心理学的な情緒と哲学的な観念との波打ち際で、いかに物理学的な周波数をコントロールするかという意志と技術が、環境という幻影を出現させる。

環境を生成する音響の源流。
それは、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーのサンプリングエディット感覚であり、シェーンベルグやオリヴィエ・メシアンの数学的なロジックであり、クロード・ドビュッシーから坂本龍一へと繋がる近代印象派的なゆらぎであり、ユーラシアの上空を流れる透明な風だ。

夢見るように飛翔する旋律、めくるめく色彩をホログラムする和声。
管弦楽曲『交響的序曲』は紛れもなく、映像的なアンビエンスに充ちている。

ところで私は、この繊細な感性を持つ作曲家の名前を、蟻太郎(アリタロウ)と誤読していて、それは絶対に宣伝文のフォントのせいに違いないのだが、まあそんなことはどうでもいい。
いずれにしても、須賀田礒太郎がスコアに残した音符の数々は、重力の底面を這い回る蟻どころではない。
月の光を吸収する美しいオパールガラスの羽根を持った、ユーラシアの蜉蝣だ。
ほのかに輝く光の粒子が羽化して、いっせいに飛び立つ。
巨大な螺旋を描きながら空中に舞うカゲロウは拡散し、
そして、永遠の響きに溶ける。

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