ことの始まりは、須賀田が疎開し晩年を過ごした栃木県の田沼町の方々からの、須賀田の唄を歌いたいのだが楽譜はありませんか、という問い合わせからだった。 須賀田は横浜生まれの横浜育ちだが、戦争中に須賀田の母方の田舎である田沼町に疎開し、そこで晩年を地元の人に音楽を教えたり、学校の校歌を作ったりして過ごした。よって田沼町には、須賀田の教えを受けた人、須賀田の作った校歌を歌った人がたくさんいる。須賀田は敗戦という惨めな状況に国中が沈んでいるなか、一陣の涼風のように田沼町の人々の心を吹き抜けていったようで、没後五十年近く経った今でも田沼町の人々の印象に強く残っていた。
その方達の依頼で須賀田の住んでいた家の蔵を開けたのだが、そこには暗い闇の中でほこりをかぶったまま五十年間眠ったままでいた、須賀田のすべてが詰まった大きなトランクが、僕らの訪れを待っていた。
桐の木の上にキャンバスと革を張った大きなトランク、それを開けてみると、中にはきちんと整理された楽譜達が、あたかもこうなることがあらかじめ解っていたかのように、行儀よく並んで、僕らを迎えてくれた。
トランクを開けた瞬間、今まで闇の中で熟成されてきた須賀田礒太郎という名の作曲家の想いのたけが、五十年の時を越えて大空に舞いあがっていった。その大空に舞いあがったいくつかの想いが、いま実を結ぼうとしている。 以前田沼町の有志の方々の企画で、「弦楽四重奏第一番」を演奏したのだが、僕も含めて須賀田の作品を実際に聴くのはこれが初めてという人がほとんどであった。この曲は日本の旋律を基にしつつも極めて現代的な響きを持っていて、才能のない輩が作った、ただ日本っぽいイメージの旋律をクラシックっぽくしましたなどというものとは、確実に一線を画している。また、展開していったときの曲調が、ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏のようでもあり、時に鋭く切れ込んできて、時に重く沈み込みと、その展開の斬れ味が実に僕好みであった。(血が繋がっているとは、好みも似るのか。)
そして2002年2月、神奈川フィルハーモニー管弦楽団によるオーケストラ曲の演奏と、日本戦後音楽史研究会の主催による「弦楽四重奏第二番 無調性」の演奏が決定した。
詳細は別ページに掲載するが、とても楽しみである。
また日本戦後音楽史研究会のメンバーである音楽評論家の片山杜秀さんが、「レコード芸術」誌上に執筆された須賀田礒太郎に関しての連載を片山さんと音楽之友社のご厚意によって、武徳院WEBに転載させていただいた。ご一読下さい。
戦争、敗戦という時代に何も産みださず、忘れ去られたはずの須賀田礒太郎という作曲家の想いは、彼の死後五十年を経て、このような型で、今まさに結実しようとしている。
須賀田礒太郎は何も産みださなかったのではなく、産みだしたものがその時代にはあわなかっただけだ。それは、決して不幸なことではない。時代に迎合し、媚びた作品を残すよりは、たとえ忘れ去られようとも、毅然としていたほうがよほど美しい。
大叔父須賀田礒太郎は、後年こうやって自分の作品が発掘されることを作品をトランクに詰めて、蔵に残した時点で判っていたのではないか。
芸術家のロマンティシズムを託すことのできる人間が現れることを。
それはまた、僕のロマンティシズムでもある。
血のつながりとは、かように濃いものなのだ。