去る2月9日 (土) 15:00より神奈川県立音楽堂において、忘れられた作曲家・須賀田礒太郎 (すがた・いそたろう) 作品のコンサートが開催されました。
須賀田礒太郎・・・相当なクラシツク音楽ファンでも、今日彼の名を知っている人は少ないのではないでしょうか。
須賀田礒太郎は1907年、三人兄弟の長兄として横浜に生まれました。
彼は山田耕筰、信時潔、近衛秀麿、菅原明朗、のちにプリングスハイムに師事して作曲の腕を磨き、1930年代始めから管弦楽曲を次々と発表しました。当時の日本は、現代では考えられないほど作曲コンクールが盛んで、須賀田の作品も1936年に「日本絵巻」(宮内省式部職楽部雅楽曲募集)、1937年に祭典前奏曲 (NHK管弦楽作品募集)、1938年に交響的舞曲 (第2回新響邦人作品コンクール)が入選、そして1942年、第1回ビクター管弦楽懸賞に交響曲第1番が入賞なしの佳作に選ばれるなど、須賀田は当時、大いに注目を集めた作曲家の一人だったのです。
1944年、次第にに激しさを増す戦火を逃れて、須賀田は栃木県田沼町の母方の実家に疎開することとなります。ところが間もなくそこで病いを得、戦後も静養のため田沼に滞在していましたが1952年、ついにこの地で臨終の時を迎えることとなりました。わずか45才の若さでした。
彼の死後、その作品は全くといっていいほど忘れ去られていましたが、47年後の1999年、田沼町で須賀田が作曲した「ごはんのうた」をずっと歌いついで来た合唱団のメンバーが、「須賀田さんの他の曲はないものか」と須賀田のご遺族に問い合わせをされ、田沼の家の蔵を調べてみたところ、中から大荷物を発見しました。開けてみるとこれが礒太郎自身が整理の上しまいこんでいたと思われる、大量の楽譜だったのです。
発見された楽譜はまことに膨大なもので、25曲の管弦楽曲をはじめ、2曲の弦楽四重奏曲、通俗歌曲・合唱曲・行進曲のピアノスケッチなど、ジャンルも実に多岐にわたっていました。ご遺族によればそれらの楽譜は、須賀田が「いつか演奏されることを信じて」、まるで「開けられるのを待っていた」かのように、整然とトランクの中にしまわれていたそうです。田沼町の教育委員会では、これらの楽譜を文化遺産として保存することを検討するかたわら、なんとか実際に上演出来ないものかということで、ご遺族とともに各方面にその可能性を探りはじめました。
こうした動きの中で、情報の提供と協力の依頼を受けた須賀田の生地・横浜で活動する神奈川フィルハーモニー管弦楽団は、発見された作品を今日再演することは極めて意義のあることという結論を出し、具体的な演奏会の準備に取りかかりました。 指揮には神奈川県在住で、一連の貴志康一作品の再演・レコーディングで高い評価を得た小松一彦氏があたられ、大曲「交響詩・横浜」をメインに、4曲が上演されました。 50年の時を経て上演された作品たちの響きに、会場をほぼ埋め尽くした聴衆は大きな拍手で答えました。
当日会場にはNHKなどの取材をはじめ、作曲家・池辺晋一郎氏も姿を見せ、「こりゃ面白い。いつかどこかの番組で取り上げたいな」と語っておられたということです。また須賀田礒太郎の疎開地・栃木県田沼町からも大勢の人々が駆け付け、コンサート終了後の帰途の車の中では「本当に素晴らしいコンサートだったね」という話でもちきりだったそうです。