日本武徳院 映像 稽古週報 黒澤雄太 異論外聞 映画

春の宵、大きな満開のサクラの木の下をそぞろ歩く人びと、月の光、どこまでも続く提灯の灯り、足音、さざめき。幻想組曲「SAKURA」を聴いて、わたしの中の日本人が少し頭をもたげた気持ちになった。

今まで、どんな高名な指揮者の音楽会に行っても、有名なオーケストラの演奏を目の当たりにしても、いつも私の興味は最初の1曲/最後の1曲くらいにしか集中できなかった。技術が素晴らしい、アレンジが素晴らしいと感じても、それらはいつもどこか借り物で、本や映像で見た外国の景色を想像し、身につけたことのない生活文化を想像し、想像だからこそ余計に無責任なイメージは広がっていく・・・という次第。それはそれで自由な鑑賞法なのかもしれないし、わたし個人がもっと教養を深く身につけることができれば、それなりに興味深いことなのかもしれないが、悲しいかな、わたしはそれらに興味を持たない凡人なのであった。簡単に言えば、「なんだか高尚な気もするが、はっきり言ってよくわかりません。でもこの場にいることで少し満足」というのが私の音楽鑑賞だった。そのわたしが、音楽堂の椅子に身を沈め、まさに自分の中に流れ込んでくる音楽を、そのまま、自然に、興奮をもって楽しむことができた。しかし、それらは「やっぱり、日本人には日本人の作った曲のほうが理解できるのだ」という短絡的な結論ではない。須賀田礒太郎の曲は、多くの西洋を彼の音楽家としての才能、深い教養、センスを以て咀嚼し、その中に日本人の血を流し込んで生み出した作品ではないかと感じた。決して、エキゾチックな東洋趣味に終わることなく、それらを目玉として西洋に媚びることもなく、借り物の物マネではなかった。日本古来の趣味を、当の日本人が理解せず、学ぶ機会も得られず、そのような危機にあることも気づかないで生きている毎日。逆に、外個人になったかのような感覚で日本文化を見ようとする今の日本人。日本人であることをマゾではないかと思うほど、茶化し、自虐し、最低の民族だと思い込ませられた私たちに、「SAKURA」は日本人の気高さ、センスの高さ、心の優しさ、目線の高さを取り戻させてくれる。
このような曲が、まさにタイムマシーンに乗せて送り込まれたかのように、復元され、多くの音楽家たちに演奏され、それを彼の支援者が時を越えて集まり、旋律をシェアできる空間にいられたことに感謝して。

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