日本武徳院 映像 稽古週報 黒澤雄太 異論外聞 映画
 
音楽評論家の片山杜秀氏が「レコード芸術」誌上に連載した須賀田礒太郎に関してのコラムを
片山氏、音楽之友社のご厚意によって転載させていただく。この場を借りて、御礼申し上げる。
「空白の時代を発掘せよ!」
その1 レコード芸術2001年4月号
text. 片山杜秀

忘れられた作曲家、須賀田礒太郎(1907〜52)の自筆譜大量発見!
4月某日筆者はその現物を確認すべく栃木県南部の田沼町にとんだ。御遺族が家の蔵から見つけられた楽譜一式はそこの公立図書館に寄贈されているのである。
御遺族、町の教育委員会、地元合唱団の主宰者の方のご厚意で、さっそく図書館の一室にて膨大な楽譜を暼見させていただいた。その限りでいうと、須賀田の作風の変遷はおおよそ次の如くになるのではないか。

まず1930年代初頭、菅原明朗に師事した時代はやはりフランス近代っぽい。31年の《横浜》はドビュッシーの《映像》あたりを思わす大仕掛けの管弦楽曲で、横浜の景物描写が続いたあと、中華街の祭りの雰囲気が延々続く。
それから33年にプリングスハイムに師事するようになると、ワグナー、ヴォルフ、R.シュトラウス、マーラーを教えられたようで、曲想もドイツ後期ロマン派に日本の趣味が入ったものへと変じてゆく35年の《祭典前奏曲》や37年の《交響的舞曲》へんがその代表的作例となろう。
そのあと、同一路線上にもっと東洋的響きが増殖し、和声もよりモダンになっていって、40年の《双竜交遊之舞》では序破急の構造をもったシュトラウスとバルトークと雅曲の出会いのような音楽になる。
翌41年の《砂漠の情景》は<聖地巡礼>に始まり<アラビア馬に跨がりて>に終わる管弦楽組曲で、團伊玖麿の《シルクロード》の先駆けだ。同年の《追想》というなの演奏会用葬送行進曲もよさそう。山本五十六の葬儀関連で使用されたとか。これも同年の弦楽四重奏曲は江文也に似ている。しかしこの戦時期には東洋的な曲ばかりでなく、ヒンデミット調のものもあるようだ。戦後は民族主義路線の作品も続くが、もっとモダンにということで無調への探求も見られる。46年の弦楽四重奏曲には表題に「無調性による」と入っている。

とにかく質量ともにじゅうぶん大家に数えられるべき人。
彼が英国人だったらとっくに主要作品がひととおり録音されているだろう。
とりあえず2002年の神奈川フィルによる個展に期待しよう。
戦後の四重奏も近々、演奏できるかもしれない。

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