戦前・戦中期の日本における重要な管弦楽作家のひとりでありながらも、1952年の没後、存在を忘れられた須賀田礒太郎。彼の自筆譜が発見されたという99年の下野新聞の記事を手掛かりに調べはじめて約ひと月後の3月某日、筆者は神奈川フィルの事務局に居た。というのはこういうわけ。
須賀田は生粋の浜っ子だったが、戦争末期の44年、栃木県田沼町の母方の実家に疎開し、病いを得たせいもあって戦後もずっと田沼で暮らし、ついにそのまま逝ってしまった。残された楽譜が99年に出てきたのはその実家からで、だから報道は地元の下野新聞等でなされたのである。そしてこのニュースは須賀田の縁者から作曲家の生地、横浜のオーケストラ、神奈川フィルに伝えられ、同団は発見された楽譜を検討して、須賀田の個展を2002年に催すと決定したのだという。
それで、筆者は同団を訪れる次第となったのだが、そこにはわざわざ楽譜を発見された姪御さんご一家が足を運んで下さっていて、おかげで直接お目にかかり、発見までの経緯を伺うことができた。
さて、礒太郎は三人兄弟の長兄で弟と妹があり、それから自身にも妻と子ひとりがいたが、妻は須賀田家を離れ、子と弟は早逝したので、現在家を守っているのは妹とその娘、すなわちお会いした姪御さんということになる。親族のあいだで礒太郎の楽譜の行方は長く追及されることはなく、またその所在を確かめようとする演奏家や研究者もずっと現れなかったらしい。しかし実家の田沼町には礒太郎の音楽をきちんと覚えている人たちがいた。それは平均年齢70歳越えという地元のアマチュア合唱団の皆さんで、覚えていた曲は敗戦直後、NHKラジオ歌謡として放送された深尾須磨子作詞、礒太郎作曲の《ご飯の歌》だった。やはりラジオの力おそるべし。合唱団の皆さんはこの歌と、他に合唱でやれる礒太郎の譜面はないかと御遺族に尋ね、そこで姪御さんのご子息で武道師範をされている好青年が田沼の家の蔵を開けてみたら、礒太郎自身が整理の上しまいこんでいたらしい楽譜の大荷物が見つかったというのだ。
その量がまた半端ではない。管弦楽曲約25、弦楽四重奏曲2・・・・・・。
いったいどんな曲なのか。期待に胸は膨らむ。