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私たちは博物館などで日本刀を工芸品として鑑賞する。刃文の妙、下げ緒の編目、刀身の描く曲線、そこには確かに工芸品としての美がある。黒澤の剣を握らせてもらった。初めて日本刀に触れた私にはずしりと重たく、また今までに感じたことのない緊張が身内を走る。彼の剣には刃文がない。斬ることを目的として研いだ刀にそれは必要ないのである。だが仮標を見事に斬ってみせる黒澤の動作と切断面が美しいように、研いで刃文の消えた刀は斬るということに収斂された美しさがある。
道場見学をしていて試斬居合道の美意識とは何かが、ふと分ったような気がした。「型のための型」と「斬るための型」とは自ずと異なる。呼吸を整え、心を静め、無心になって動へと移行する。この行為の爆発の後、再び呼吸を整え、納刀する。静から動へ、再び静へと移る動作は無駄がなく美しい。黒澤の場合、型が儀式になっているのではなく、斬ることが儀式なのである。生きるということが何かの目的のためにあるのではなく、生きるという行為を有意義にするためにあるのだとすれば、黒澤の場合には取りも直さず斬ることである。そのために彼は鍛練し、そしてそれがあるが故に静としての日常がある。それはややもすると忘れられがちな武道の根幹を成す精神的・肉体的鍛練の本来の意味を問い直すことでもあり、剣士として生きる誇りのようにも思える。 |
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